ワープロ廃止論

2000年3月2日

 2月27日(日曜日)の朝日新聞コラム「閑話休題」外岡秀俊氏(編集委員)より引用します。その題は「ワープロ廃止論の重み」です。

 『書家の石川九楊氏は、雑誌「文学界」二月号に、「文学は書字の運動である」という文章を寄せた。教育の場や家庭からワープロやパソコンを放出せよ、という大胆な論である。

 石川氏によると、表音文字を中心とする西欧文化では、ワープロは「書く」から「打つ」行為への転換にすぎない。だが、表意文字の漢字を中心として、ひらかな、カタカナが交じる日本の文化では、その根底が覆るという。

 たとえばワープロで「雨が降る」と打つ時、人は「amegafuru」や「あめがふる」のキーを打ち、「飴が降る」「あめが振る」などの同音異義の漢字から「選択」する。文章は思考を集中、持続し、極点で白熱して初めて生まれる身体運動のはずだ。

 ところがワープロでは、これが表音を「打つ」行為と、漢字を「選択する」行為に分断される。これでは思考は絶えずかき乱され、ひっきりなしに電話がかかる中で文章を書くようなものだ。石川氏はそう批判する。

 ・・・石川氏によれば、ワープロによって、実は表音文字派が大勢を占め、書字文化は崩れつつあるという。

 「電子メールは、言葉の垂れ流しでしかない。手紙は重い。やっとの思いで書き、封筒に入れる。切手をはっても、ポストの前で出さずに引き返すかもしれない。そういう深い思いや迷いを経て、ようやく届くのが手紙です」

 言葉に全人格の重みがこもる。そうであってこその言葉だ。・・・』

 こんな内容ですが、文学作品を書くはずもない凡人にとっては賛成できない意見です。手紙を書かない理由には、字が汚く恥ずかしいということがないでしょうか。漢字をすぐに思い出せなくて、辞書を引くのが面倒だということがないでしょうか。

 インターネット社会はメールを含め多くの人に書く場を提供してくれました。多くの人が書ける道具がワープロでありパソコンです。文学を残す人だけが書くのではありません。考えることを伝えるのが文章であるなら、それを書く道具がなんであれ構わないのではないでしょうか。

 全人格をこめた言葉など普通の人に書けるはずもありません。それよりも、意志を伝える道具が増えたと考えるだけでいいのではないでしょうか。たしかにパソコンに向かって書く時はいらつくものです。キータッチの下手さ、変換のまずさなど、ご意見のとおりです。

私は書くことが頭の中に出てきたら、キータッチや誤字を気にせず、考えていることを打つことに専念します。後で、漢字や言葉、文章そのものの修正をすることにしています。

 また、メールを送信する時にも、手紙を出す時のような心境になります。字の間違いはないか、文章はおかしくないか、読んだ人がどう思うだろうか、などなど色々な思いが出てきます。全人格をこめてというまで行きませんが、思いはこもっています。

 一方でメールは電話の代わりでもあります。意味のない言葉の垂れ流しであっても不思議ではありません。一つの道具をどんな風に使おうと問題ないのではないでしょうか。